ごく最近までそうだったのだが、動物にもわたしら人間のように意識をもっていることを理解できなかった

なかったというより、まだトレーニング中という言い方の方が正しいか

 

尤も、浪人生時代にアイドルを好きになって、彼らのSNSなどを見て(新しいものが更新される。昔の日付が記されていて、その時分も彼らは生きていた"らしい"。)やっと同じ時を生きている=本やなにかのキャラクターとはちがうのだと実感したのだ

それまではテレビのなかの人間やアーティストは本などと登場人物と同じように思っていた

本を読んでも未だ登場人物がその本の世界の中で生きているようには思えない、否これは健康なのかな?

 

自分でもこの感覚は不思議で、モノには意識は向けていた

例えば、この寝具一式をつくるのにはベッドなどのデザインをする者、縫製をする者、鉄などからベッドをつくる者、販売する者などが介在していて、やっとわたしはここに座れている。これは感謝すべきであって、しかし対に、他者の力がなければ生きていけないのだと思い知らされることでもあった。

だが本の登場人物はどこまでも空想のもので、偶像で、人の創りだした空虚であった。不思議なのはテレビなどの生きていそうな人間にそう思えなかったことである。

勿論、クラスメイトなどは生きている。

ROOMという映画が今年上映された。妻と子が最低限の文化的生活を送れる部屋に幽閉されているが、子のみが抜け出してーーといった話だった気がする。トレーラーを映画館で観てぞっとした。気味が悪くなるほど"子"に自身を投影できたからだ。

空は青いの?というのはさすがに大げさだが、テレビの中のひとは?といったり、世界を知らないという点(わたしの場合そういうものだと自身で思い込んでいたし、周囲は彼らが生きていることなど当たり前なので教えてこない。よって知るもなにもなかったのだが)では大いに共感できたのだ。

そして子は旅立つそうである。わたしはおそろしいので観ることができないが、多くのことを学ぶそうだ。きっと知ってしまったら、わたしのように「テレビに写ってるものはなにでできてるの?」というような馬鹿げたことは誰にも聞かないだろう。

わたしも今学んでいるところ。

 

この前公園を散歩していたら、ボーダーコリーが寄ってきた。飼い主も近くにいて、触って良いとお許しがでたので触らせていただいた。ふわふわしている。あたたかい。がらすだまのような黒ばかりの瞳がわたしを見ている。尻尾を振っている。うれしいのか。うれしいと感じているんだな。そんなときに、飼い主は「犬が好きなんですねえ」「かわいいと言われてるのがわかるからうれしいみたい」「かわいがられてよかったね」と言っていた。ひとしきり撫で回したあと、あまり時間をとってもと思ったので、また、と言って別れた。

こんなわたしこそ畜生だが、彼らを畜生だと思っていたのかもしれない。

馬の映画を思い出した。戦時中に青年の買った、白の靴下を履いたような馬が、ひょんなことから戦場に駆り出される。そこでは馬は使い捨てであった。鞭で叱咤して、馬には荷が重すぎる荷物をひかせる。足は傷だらけで、疲弊しきった馬は多かった。もう生きていられないような馬、無理がたたって脚が折れてしまった馬などは容赦なく銃殺されていた。

動物の気持ちがわからないとは、最悪そういうことであるか。

同じ命を持って生まれて、しかし姿形が異なるだけだということは、月並みすぎてわたしはああそうですかと飲み込んで流していた。

飲み込むのは容易い

理解ができない。自身の力が必要になる。

 

いやでも蚊は命なんぞといってられぬ

放っておけばやつらはわたしを蜂の巣にして二十ヶ所弱吸いまくって、お礼もせず用無しだと離れる

どれだけ命だのなんだといってもやつに情けは無用だな