楽して死ねればよいと思っている

 

人の家に遊びに行ったとき、突然暗闇がやってきて、テレビやらその時分使っていたドライヤーやらが死んで、静かな一瞬が流れたとき

地震に取り憑かれたわたしは、常にあの事象に怯えていて、ついに来たのだと思った

苦手な暗闇に包まれたということもあるかもしれない(わたしは暗闇がこわい。視界に何があって、逆に何がないのかがわからないと恐怖を覚えるのだ。夜目はきくが頼りにしない。少しでも視界にかげりがあれば、部屋を移動したり階段を上がったり、廊下を渡ったりするたび、通るところはすべて明かりをつけ、通ったあとに消すという癖がつくほどである。)

その人の部屋は二階建てのアパートの、一階であった。扉を出て1.5メートルほどの通路(往来)のはす向かいに人家があって、隣家との距離は人ひとり通れないほどである。要するに、建物が密集している。

暗闇に包まれて静寂が流れた一瞬、つい、えっ、と声を出してしまって、さらにきっと圧死だと脳がわたしに伝えた。

圧死は嫌だ。

「ごめん、ブレーカーが落ちた」とキッチンに立っていた人が言った。

動けずにいるわたしを横切って、スイッチをいじった。右から動かしていたが、一番左にあるのが主電源のようだった。ようやくすべてが復旧すると、わたしはやっと杞憂だったのだと気づいた。「どうしたの、怖かった?もう大丈夫だよ」という言葉を理解するのに少し時間を要した。

 

 

例えばお風呂場で、怠いというと髪を洗ってくれる

身体は自分で洗いたいということは分かっているので、タオルを渡してくる

湯上りで身体を拭いたつもりでも必ずどこか濡れているからと見てくれる

探し物で視線を四方に巡らせていると、なにを探してるの?これ?と渡してくる

わたしのあずかり知らないところで、携帯を充電したり、DVDのダビングなど、やらなければならないことをしておいてくれる

コップを洗い場に置きに行くために離れるときにもキスを落としてくれる

これが愛情以外のなんなのだ

なぜわたしは理解しないんだ?そもそもわたしは何を求めているんだ?